大器无成

大器はその大きさゆえに、決して完成することはない

犯罪と動物と人権

最近のカルロス・ゴーンさんの話題で思い出した、自由意志の話。

以前観た内容

どこかの動画サイトに上がっていたトークを何人かで観たのだけれど、どこで見たのか忘れてしまった…もはや誰のトークだったのかすらわからない。悲しい。

大枠としては、「自由意志というのは社会的(間主観的?)な要請あるいは仮設である」というもの。もともとの論旨は以下のようなものだったと思う:

  • たとえ確率的であれ、全ての現象は物理法則に従って決定されている。
  • ただし主観的には、なにがしかの行動が予測不能である場合には、それは「(自由?)意思をもって動いている」と仮定した方がわかりやすい。その対象は人間だけでなく、動物やアニメーションの「点P」のようなものでも同じ(ピタゴラスイッチのぼてじんとか)。画面上の点Pが予測不能な動きをする場合、頭では「ただのコマ撮りでしょ」と分かっていたとしても、直観的には「こいつには意思がある」と捉えた方が腑に落ちやすい。
  • 社会のルールにおいても、「個々人にとっての自由意志は、他者にとっての予測不能性である」という前提がベースになっている。この前提からさらに導出される仮定として、「自分から見て予測不能性を持つ主体には、自由意志があると捉える」とも言い換えることができる。
  • 社会の一般ルールとして主張される「社会のルールを守り、その一員として行動できない成員は、自由を制限されても致し方ない」、あるいは「個々の構成員には、守れる社会のルールの範囲を反映した形でのみ自由意志が認められる(これがつまり『権利』)」という考え方は、上の仮定から導き出させる。つまり社会の仕組みにおける自由意志(あるいは自由)というのは生得的(本来的?)なものではなく、社会を作るために用いている仮定であると考えることができる。

この議論は、「社会とは何か?」という問いに対する本質的な点を指摘していると思う(少なくとも、社会のルールについての議論においては)。社会のルールがどうあるべきか、あるいはどうあってほしいかを考える際には、その構成員がどのような特性、特徴を持っているかをあらかじめ捨象して抽出してこなければならない。トマス・ホッブスの「万人の、万人に対する闘争」として定義された「自然状態」という考え方は、これが明示的に行われた最も初期の代表例なのだと思う。「一般的構成員の性質は、これだ!」としてしまうことで、よりシンプルに社会の仕組みについて考えることができるようになる。

いっぽうでこういう理想化はあくまで理想化であり、絶対的なものではない。数学の考え方で言うなら「公理」(最初に無条件で置く前提)のようなものである。いくらでも疑いを挟む余地があるし、もし現実に即していないと思われるならその前提から省みるに値するものだと言える。

権利について

上の動画における「権利」の概念についてもう少し。

「権利」という概念は、「社会の枠組みの中で自由意志が認められる範囲」として捉えることができる。権利は常に「社会」という枠組みの中でしか語れないものである(例えばジャングルやサバンナでいくら自分の権利を主張しても、周囲の人に自分の思いを分かってもらう程度の効果しかない)。

上の議論をそのまま適用すると、個々人が「特定の社会のルールを守って、その社会に参加しよう」と思うからこそ、その社会に固有の「権利」が認められると言える。刑法39条の「心神喪失者・心神耗弱者は罰されない」というのも、「そもそも社会に参加しようとする意思が薄弱なら、社会のルールに縛るべきではない」という解釈だととれる。

ただ社会のルールに縛られなくなる反面、社会の構成員なら本来受けられるような社会的恩恵(自由権とか平等権とか)が与えられなくなる、という結論も同時に導き出され得る。つまり社会の運営側としては、個々の場合について:

  • その人にどの程度の意思が「認められる」か?
  • 社会としてどの程度の権利を「認める」か?

という問題に関して線引きをしていくことになる。個人的な感想としては、これも結局は特定の社会における「スタンス」の表明でしかないし、ケースバイケースの側面が強いので、おそらく明示的であればあるほどよいのではないだろうか。

動物の権利について

個人的に上の動画の後に興味を持ったのは、まずは「動物の権利」についての諸々の議論だった。

  • 動物たちは、(意識的あるいは結果的に)どの程度社会に参画していると言えるのか?
  • 個々の場合について、どの程度の権利あるいは義務を認めるべきなのか?

ペットや家畜がスーツケースとか鉢植えのようなものと同格とは到底思えないけれど、社会のルールが人間の言語(と、人間の感覚)で作られている以上、人間と同格の構成員になることはできないと思う。ならどのように線を引けるのか?結局難しいので、自分の中では問題提起で終わってしまっている…。

犯罪者の権利について

そして最初に出した、犯罪と人権の問題。これも結局問題提起だけで、そこからどう考えていけば良いのかわからない…。

なにがしかの刑事事件を犯して有罪判決が出た場合、「この人は社会のルールを守ることができない」という烙印が押されるわけで、多少自由がなくなるのはやむを得ない。しかも周囲からは「この人が本当にルールを守れる人間になったのか」など推測のしようがないわけで、社会復帰自体が非常に難しくなるのもある意味しょうがないように思う。実際、判決後になんとか社会を渡れている人としては、ホリエモンくらいしか知らない。

それよりもややこしいのは、ただ逮捕されただけなら「犯罪の疑いがある」だけ、ということ。冤罪だったら、当人からすれば「何も悪いことしてないのに自分の自由が侵されている」という状態になるわけで、迷惑この上ない。しかも逮捕されるだけで一般的には(どうしてだか知らないが、世間という別種の社会によって)退学・解雇を余儀無くされる。冤罪を被った側からすれば「社会の横暴」とでも言うべきことだと思う。

いっぽうで、もし実際に罪を犯しているなら、周囲の人間からすれば「取り調べ中の奴が野に放たれて更なる問題を撒き散らす」というのも迷惑甚だしい。容疑者の人権は、何をどこまで制限できるのだろうか?果たして自分の所属している社会は、冤罪によって被り得る迷惑を補って余りある恩恵を、本当に自分に与えてくれているのだろうか?

おわりに

原則は分かった気がする。そこから各論に持って行くのが怖い。