大器无成

大器はその大きさゆえに、決して完成することはない

感情ミュート社会での人間関係

AERAの記事で、博報堂の研究所が作り出した「感情ミュート社会」という単語を知った: https://dot.asahi.com/articles/-/282926

最近では仕事場はもちろんのこと、人によってはプライベートでも「なるべく感情を出さないようにしている」という人が多い、とのこと(ただしコメントでは「そんなの昔からなのでは?」という人もいたので、最近の話なのかは完全にはなんとも言えない)。

博報堂の人の解釈によると

- 雇用されての対人労働が増えて、衝突を回避したい場面が増えたこと

- 感じ方の多様性が認知されて、自分の感じ方をおおっぴらに主張することを迷う場面が増えたこと

が関与しているのでは、とのことだった。ある意味では、古来からいわれるところの「分別のある」人が増えたということなのかもしれない。

一方で、「周囲の人にはもっと感情を出してほしい」と感じている人も過半数、とのこと。「おそらく関係構築には感情の共有ができたほうがやりやすいが、自分から出すのは難しい、ということなのでは」と解説されていた。

記事のコメントには「現代は感情の面でも孤立が進む『アイソレーション社会』になっているのかも」といった指摘もあった。確かにそうなのかもしれない。そして、とくに仕事場の中でその傾向が進行してしまうのはあまりよくないような気がする。

今後はますます、意識的であれ無意識的であれ「戦略的に感情を出せる」人がコミュニケーション強者になるのかもしれない。ある程度のリスクをとって少しずつ感情の「ジャブ」を打っていき、どこまでなら相手と共感し合えるか、どこから踏み込みづらくなるか、その「境界線」をうまく引けることが重要な気がする。

大規模言語モデルの利用法

大規模言語モデル (LLM) がチャットボットとして利用されるようになって久しい。実際少なくとも、SEOでめちゃくちゃになってしまったウェブ検索の代替としてはとても有用だと思う。いろいろなことを一人で始めたり、一人でトラブルシューティングしたり、といったことがとてもしやすくなり、コミュ障界隈の人間としてはとても嬉しい。コミュニケーションの難易度は別にしても、一生かかって出会えるかわからないような人の考え方に数秒で出会えるようになった、というのは革新だと思う。

ただこの使い方が本当に「本来便利になってほしかった方向性」かというと、どうなんだろうとは思う。個人的には、もっと「有能な個人秘書」的な存在として成長してほしい。と言っても単なるスケジュール管理とかだけではなくて、「数年前に自分でまとめたあのプロジェクト資料、どこやったかな」とか、「こういうことをしたときに事務方に提出しないといけない書式はどれで、どう埋めたらいいだろう」とか、そういった個別具体的なケースを解決する手助けしてくれる存在がほしい。

本来は、こういう困りごと自体がなくなるレベルにまでLLMエージェントが進化する、といった状態が理想なのだろうけれど、一足飛びにそこを目指すのは危うい感じがする。現にLLMを用いて「いきなり製品を作る」という試みには、相応のリスクが伴っている。逆に、たとえば自分が文章やコードを書いているときに「こうでしょ?」みたいな感じで候補が提示されるのも、自分の思考に割り込まれているようで鬱陶しい。

いきなり完動品を作ってしまったり、自分の思考に勝手に割り込んで来るのではなくて、たとえば「これまで自分が書いてきたコードやテンプレート」をベースにして、うまいこと「部品」を作ってもらう、みたいな使い方はできないものだろうか。古来プログラマーは、「コードを書くのを自動化して一人前」みたいなところがあった。その場合は自動化プログラム部分は本人が作っていたわけだけれども、LLMをうまく使うことで「部品のテンプレートは自前で用意する」「大まかな指針もこちらが決める」「じっさいの『代入作業』だけLLM的なエージェントに代行してもらう」みたいな使い方がしやすくなるのではないだろうか。

このときに問題になるのは、LLM部分とデータベース部分をどのように接続するか、どうLLMを追加トレーニングするか、というところだと思う。RAGは(少なくとも今のところは)大規模あるいは多様なデータには向いていない技術に感じる(国税庁のチャットボットのような存在は許されない)。最近LLMが「エージェント」として振る舞って検索コマンドを生成し、検索で出てきた結果を更にまとめる、といった技術が、ある程度成功している。もう少しすれば、「与えられた範囲のデータから、適切なキーワードで該当データを取り出してくる」のいう抽象的な能力を得たLLMが出てくるかもしれない。そうしたら、そのときこそ我々は煩雑な「事務作業」から解放されるのではないだろうか。

自他境界のバランスについて

ふと思い立ってメンタライゼーションについて調べてみたところ、「自分の状態(感情)を把握する」ことと「他人の状態(感情)を推し量る」ことのバランスが重要、という視点を知った。もしかすると、こうした「自他境界のバランス感覚」が重視されるのは、現代社会に特徴的なことなのでは、と思った。

この感覚は、 [なぜ休むことに罪悪感を覚えるのか](https://d21.co.jp/book/detail/978-4-7993-3245-0) でいろいろインプットされたせいかもしれない。現代では個々人のレベルで、資本主義における「生産性・効率」といった価値観が内面化されてきた(少なくとも本の著者はそう主張していた)。その結果、こうした価値観の前に「無駄な」感情や気分といった要素が軽視されがちになったのでは、という気はする。少なくとも、自分の感情がわからない人、他人の感情を一方的に決めつける人が社会の中で生きにくくなっている、というのは、こうした事情が影響しているのかもしれない。

それはそれとして「自他境界のバランス」というもの自体は、今に始まった話ではなく昔から存在する(おそらく人間に普遍的な)ものだと思う。たとえば、「『ウチ』に属する人々がどう思うかはすごく気にする一方で、『ソト』に属する人々がそもそも感情を持った存在だとは感じられない」みたいな感覚は、日本だけでなく世界中で昔から見られる現象なのではないか。もしかすると人間がもつそういった能力には、ある限界値が(そこそこ低いところに)あるのかもしれない。もし限られたリソースを配分しているなら「社会が社会としてまとまるためには、自他バランスのとり方、ポリシーが、社会の中である程度共有されている必要がある」という可能性もある。望むらくは、多様なバランスのとり方があっても崩壊しない社会が作れたらよいのだが。

公共財としてのNHK

例によって、昼ごはんどころでNHKが「NHKはこんなに重要なことをやっていますよ、よく見てください!」という番組を放送していた。こういう番組を見るたびに、NHKの存立意義について考えてしまう。つまるところ、NHKの「公共性」とは何なのか、ということだと思う。

公共性というものについて、過去の人々の知見を自分なりにまとめると

・社会(国家)から、全ての構成員が使えるように提供されること

・構成員が社会の中で活動(生活)するのに重要なリソースである、と考えられること

・市場原理に任せるだけだと善くないことになる、と考えられること

といった点が重要なようだ。もちろん「何を公共財と捉えるか」については先験的なものというより社会の中で合意されたものという側面が強いし、「公共性」にもグラデーションがあるわけだけれど、エッセンスとしては上の3点でそこまで外していない気がする。

このあたりを踏まえた上で、今のNHKはどうなんだろう、という話になる。NHKは日本という国の構成員に対して、どのようなインフラを提供していると言えるのか?確かに教育テレビ的な番組は重要だと思えるし、おそらくラジオも非常時に重要になるのではと思う。ただ、これまでの流れで済し崩し的にテレビ放送が中心になっているけれど、本当にNHKは「映像放送」というものに軸足を置き続けるべきなのだろうか?「民放だけに任せるのは怖い」という気持ちもわからなくはない(じっさい民放のドキュメンタリーは、取材内容が解釈に引っ張られることがあまりに多くて見られたものではない)けれど、じゃあNHKがまともな番組だけを流しているか、コストに見合ったものが作れているかというと、疑問に思う。

今日観た番組の中で、「信頼に値する一次情報の場所を作る試み」(具体的な表現は忘れた)に関連したNHKの活動も紹介されていた。個人的には、今の社会にあってNHKに求められる役割は、こういう「Wikipedia的だけれど、速報性もあって信頼に値する」コンテンツをインターネット上に集積していくことなのではないかと思う。間違っても自己正当化の番組をわざわざ枠を使って流すことではない。

生成AIとの向き合い方

YouTubeで誰かとスタンフォードの何とかという心理学の先生とが対談していて、そこで「できる学生」と「できない学生」とで生成AIの使い方が違う、という話をしていた。「できる学生」は生成AIの助けを得て自分で何かをしようとするのに対し、「できない学生」は生成AIに丸投げして自分は他のことをする、というような感じだった(実際には、うまいこと一言で表してくれていたのだが、忘れてしまった…だからニュアンスも若干違うかもしれない)。

確かにこの差は、「生成AIを活用する」と言って利用を推奨する場合と、「生成AI使用禁止」みたいな形で禁止する場合によく対応しているのかもしれない。推奨される使い方ではあくまで動作の主体は「自分」であって、生成AIの出力を自分なりに咀嚼する、というのが前提になる。生成AIの「してほしくない使い方」は確かに丸投げで、中身に対して責任は持たない、という姿勢ではある。

ただこのあたりも、「こういう姿勢であってほしい」という価値観を勝手に押し付けているだけのような感覚があり、少し居心地が悪い。こちらは「この価値観(学びの糧)のほうが重要」「対置されている価値観(丸投げ)は良くない」と確かに思っていて、できればそれを相手にも実践してほしいとは思っている。しかし本当にその価値観を押し付けることが「良いこと」なのか、あまり確信できない。確かに社会にはそのほうが良いのかもしれないけれど、個人に対してその価値観が本当に「良い」のか?まだもやもやする。

働き続けられる女性を増やす

最近世界女性デー関連の記事をいくつか読んだので、それについてここ1-2年思っていたことをメモしておく。タイトルは「女性」になっているけれど、たぶん性別とかは関係ない。

なにがしかのライフイベント(という表現も好きではないけれど)に対して「働き続けるか、辞めるか(あるいは転職するか)」という選択肢が基本になってしまうのは、選択肢の貧困なような気がする。いちおう「時短勤務」というオプションもあるようだけれど、時短勤務をしていない人からの怨嗟の声も見たりする。とくにこの辺りの問題は、それぞれの人はそれぞれにできることを模索しているわけで、なんとかならないものだろうか、と思う。

面倒なことの根っこには、それこそ「メンバーシップ型」の就労構造があるのだと思う。「仕事」というまとまった何かがそこにあって、それを「組織の全員」でなんとかする、という方式(役割分担はないわけではない)。こういう感じになっていると、誰かが休んだり時短勤務になったりすると「こちらがこんなに頑張っているのに、あいつだけ楽しやがって」みたいなことが起きうると感じる。

それと並行して起きているであろうことは、「顧客満足」の名のもとに無形の(あからさまに現れない)サービスに対する要求がすごく高くなっていることだと思う。そもそも、現代日本の「サービス」が、メンバーが昼夜問わず働けるし、反応できる、という前提で作られている。そうでなければ自社の「価値」(金銭的には価値は発生していないが)を実現できない、というのが、たいていの会社の理念に組み込まれているような気がする。こうなってくると、時短勤務なんかは(たとえ規則上認められていたとしても)会社に対する背信行為になる気がする。まあもちろん、特定の文脈では速さは重要なのだけれど、「いつでも重要」というような暗黙の了解があるところに息苦しさを感じる。終身雇用の安定と引き換えに、サービスのコストをメンバーに押し付けているだけなのではないか。

そんなわけで、「ライフイベントやら何やらに応じて、同じ組織で柔軟に働き方を変えていく」というコンセプトを理想とするなら、戦後日本の強みをほぼ否定するレベルの変革が必要になる気がする。

1. 会社(組織)が周囲に対して提供する価値について、自らできる限り明示的に定義する。それらの価値を個々の業務の単位でできるだけはっきり切り分けて、メンバーのそれぞれに対して「どの価値を」「どの範囲で」実現することを要求するか、明示する。メンバー間では、業務をできるだけ疎結合にする(職責の分離)

2. メンバーの評価は、つねに職責ベースでおこなう。極端な話、姿を全く見なくても、その職責が十分に全うされているなら評価するべき、ということ。これとは別に、報酬の増減も(ベースアップみたいなのは別にして)職責の増減の形で行う。

3. そうすると、たぶんメンバーの流動性は必然的に高まると思う。チーム側がメンバーの職責に合わせて雇用条件を柔軟に変えられるよう、雇用契約(解雇のしくみ)自体ももっと柔軟にできたほうがいい。

4. 現行の社会保障の仕組みも、企業などが直接雇用する人数を減らす要因になっていると思う。職責の量がそのままなのに人数の増減によって負担が増減することがないように、もうすこし柔軟な方式に組み替えられないか。健康保険や年金の仕組みも、雇用条件や勤務先の変動によって不必要に複雑化したり大きく変動したりしないよう、より一元的な仕組みを設けたほうがよいのではないか。

しかしこのあたり、どう進めていけばよいのやら。このへんを全部一気に変えようとすると色々なショックが生じそうだが、かといって少しずつでも過渡期の歪みが許容できなさそうな気がして、とても難しい。

表現学習

表現学習はおもしろい。高次元のデータをうまいこと潰して、人間にも判断可能な像を提示してくれる。うまく使えば、多様体に埋め込まれた情報の可視化に使える。重要なのは、本来は同じ土俵に立てない「音」や「動き」といった情報まで、うまくデザインしてやることでひとつのマップの中に埋め込むことができる点である。

ただ現状の表現学習は、サンプル間の「距離」(測度)が適切に測れることを前提としている。サンプルの全次元が同じ単位で揃っているなら問題ないけれど、そうでない場合には恣意性が入り込んでくる余地が生まれる。たとえば、ある時点での音の大きさと匂いの強さ、不快指数を同じ測度で測る、というのはなかなか難しい。結果として、そこから生まれる表現学習のどんな結果も、「なんかうまいことハイパーパラメータチューニングした結果なのでは?」という懸念を排除できない。

まあこういう問題は全然別の次元のものをひとまとめにして扱うから起こるので、これを回避する方法として「同じ次元の特徴量だけに絞って表現学習をおこなう」という選択肢もありうる。ただしこの場合問題になるのは、多次元ゆえの特徴の爆発である。そもそも(次元の違いを無視してまで)距離空間を導入したのは、「何が重要な違いか」をモデルに伝えるためであった。そうしたヒントなしでは、表現学習モデルはいろいろな方向の差異を同時に表現しようとするため、可視化しようとしても「本来興味があった違い」が「特に興味のない違い」に埋もれてしまう、ということが起こる。基本的にはSVDやらPCAやらと同じで、差異の方向そのものに優先順位がつけられていないため、差異の大きさ≒優先度、とするしかなくなるのである。

一方では「重要度」をこちらが指示できるが、恣意性の呪縛から逃れられない。他方では恣意性から解放されるが、こんどは次元の呪いがやってくる。うまく両者のいいとこ取りをする方法はないだろうか?

今考えているのは、「恣意的かもしれない表現学習を一旦おこなった上で、そのモデルを用いて『重要な特徴量』をあぶり出す(その上で、その特徴量群からより恣意的でないモデルをつくる)」という方式である。この2段構えでいけば

- 前者からは「このデータの中には、うまいこと見ればこのような構造を持っているように見える情報がある」ということが主張でき

- 後者からは「データのこの部分集合をとってくれば、事実先程と似た情報の構造が現れる」という示唆ができる

という形で、「このデータにこういう構造が埋め込まれている」ということをより確からしく主張できるのではないだろうか。